現金な人、近くにいますか?現金な人、といえば、態度をころりと変える人を、一般には指しますよね。 でも、現金で払うのに、良くない意味で使われるのは何故でしょう? 調べてみますと、江戸時代の商人に由来するらしいですね。 江戸時代の庶民は、買い物のほとんどをツケで、後から支払うシステムが一般的だっ 集金に苦労することも少なくなく、商人は困っている場合もあったようです。 しかし、ツケではなく、現金払いの人もいたようで、商人っとっては、いい人だった ところが、現金払いが悪い意味で使われているのは、支払いをするお客ではなく、商 支払いが悪い客には強気な態度、現金払いの客には、ニコニコで接する商人の態度か うちの息子も、考えてみれば、現金なやつだなー。 先日、沖縄の復帰40周年が行われていました。毎月、沖縄本島に行って、毎回ウチナンチュー(沖縄生まれ、在住)の方と、お話を そんな中で、今日も致知から勉強させていただきます。 「ひめゆり学徒たちの祈り」 本村つる(財団法人沖縄県女師・一高女ひめゆり同窓会理事長、 ひめゆり平和祈念資料館元館長) ひめゆり学徒だった私たちが沖縄戦の惨状を伝える 巡回展を行ったのは、平成二十二年(戦後六十五年目)のことです。 沖縄にはいまも多くの米軍基地があります。 激しい地上戦を体験しているため、 我々世代の県民は決してあの戦争を忘れてはいません。 しかし昨年、新聞社の方から 「今年は戦後六十五年目の節目ですよ」と言われた時、 私は「あぁ、もう六十五年か……」と 不意を衝かれたようになり、 「次の七十年の節目には 元気な声を聞いてもらえないかもしれない。 いまの若い人たちに戦争の惨めさや恐ろしさを伝えるには いまがいい機会かもしれない」 と、三十年ぶりとなる巡回展 (前回は朝日新聞社主催「ひめゆりの乙女たち」展)を 開くことを皆で決めました。 戦時中、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校から 沖縄戦に動員されたひめゆり学徒二百四十人のうち、 百三十六人は戦死。 その悲惨な体験を証言している元学徒の数はだんだん減って、 私を含め十四人になりました。 巡回展では沖縄戦で亡くなった友人たちの遺品を展示し、 私たちも証言者として全国五か所を訪れました。 企画に当たっては、体験者と学芸員が一緒になって 綿密な話し合いを重ねました。 実際に主として動いてくれたのは、 次代を担うひめゆり平和祈念資料館の学芸員の皆さんです。 私たちは元気なうちにすべてのことを 学芸員にバトンタッチしなければと考えていますが、 その点でも非常によい機会になったと感じています。 私は戦後、小中学校で三十一年間教壇に立ち、 退職後にひめゆり平和祈念館資料館の運営に関わってきましたが、 自分の戦場体験を語れるようになったのは 戦後四十年を経てからのこと。 それまではあまりの辛い記憶に、 親しい友人や家族にすら話をすることができませんでした。 特に忘れられないのは、ある友達と、 死ぬ時は一緒にねと交わした約束のことです。 私たちは壕の中で看護活動に当たっていましたが、 解散命令が出たので、壕の外へと飛び出しました。 その際、一緒に壕を出た友人の一人が敵弾を受け、 負傷してしまったのです。 まったく身動きのできなくなった彼女を 担いでいくわけにもいかず、 「このお友達をしばらく預かってください。 後で迎えに来ますから」 と近くの海岸防備の兵隊さんにお願いし、 その場を離れました。 ところが爆撃がおさまった頃になって 彼女の元へ戻ろうとすると、 そこは黒煙がもうもうと立ち上っています。 おそらく米軍の火炎放射器で焼かれてしまったのでしょう。 友達との約束は結局果たせず終いでした。 このことは戦後も心中深く残り、 あの時は仕方がなかったと言えるのどうか、 これは弁解じゃないのか……。 私もそこに残るべきだったのじゃないか、 という後悔の念が胸を去りませんでした。 生き残った私が戦争について語ること自体、 非常に強い葛藤があります。 元学徒たちは皆、少なからずそういう体験を抱えています。 私が長い間、戦争について語れなかったのも、 亡くなってしまった人たちに対して、 自分の生き残ったことが大変すまない、 申し訳ないという気持ちがあったからです。 しかし戦後四十年近くが経った頃、 恩師の仲宗根政善先生がひめゆりに関する本を 出版されたりしたことから、 資料館を建てようという動きが起こりました。 といっても、校内にあった現物資料は皆、 戦火で焼失しています。 自分たちのいた壕へ行けば、 遺骨や遺品が見つかるかもしれないと 戦後四十年目に皆で元いた壕に入りました。 筆箱や三角定規などの学用品・櫛・鏡・時計等を収集しました。 中には記名が残っているのもありました。 戦争が終わったら、学校に戻って また勉強するのだという考えで 大事に携えていたのでしょう。 それらを拾った時に、私は、 自分たちがちゃんと伝えなければ、 という気持ちを強く感じました。 資料館の開館から今年で二十三年が経ちますが、 来館された方々から 「どうすれば平和な世の中になりますか?」 という質問をよくいただきます。 大変答えにくい問いですが、私はそんな時、 「戦争の実相を知ることと、 戦争の惨めさや平和の大切さを、 展示物や証言者の言葉を通して 体得してもらえるものがあるはずです。 平和な世の中にするにはどうすればとは、 自分が考えることだと思います」 と答えるようにしています。 戦争を知らない世代の人に、 その体験を伝えるのは難しいことですが、 私たちはこれまで学芸員の人たちと戦跡を辿りながら、 現場で証言をしてきました。 最近では彼らも戦争のことだけでなく、 私たちのそれまでの人生や、 生きてきた思いを知ることによって、 すべてを受け継いでいきたいという思いで いてくれているようです。 当館では、来館した方に感想文を書いてもらっています。 毎年二万通ほどありますが、 それを三百ページほどの冊子に纏めています。 私たち元学徒は、あの戦争で亡くなった方たちの もの言わぬ声や思いを伝える代弁者でもあります。 そうした活動の一つひとつが彼女たちへの 鎮魂になればと願いながら、 平和の大切さ、命の尊さを語り続ける日々です。 「喫茶去(お茶でも召し上がれ)」愛読書、致知から勉強させていただきます。 全力で、眼の前の事をやろう、と思います。 ところで、話は変わりますが、一昨日、福田萌ちゃんに新しいフリスクを教えて頂き 松原泰道(「南無の会」元会長) 『致知』2009年5月号 中国は唐の時代、禅僧・趙州(じょうしゅう)和尚のもとに、 一人の修行僧が教えを請いにやって来ました。趙州和尚が、 「あなたはここへ初めて来たのか?」 と問うと、僧は答えて、 「はい、初めてまいりました」 すると趙州和尚は言いました。 「喫茶去」(きっさこ/お茶でも召し上がれ) 趙州和尚は、別の訪問僧にも同じことを尋ねました。 その僧は、 「いえ、以前にも伺ったことがあります」 と答えましたが、趙州和尚は同様に勧めます。 「喫茶去」 このやり取りを見て、不思議に思った寺の住職が 趙州和尚に尋ねます。 「老師は、初めて来た人にも、以前来たことがある人にも、 同じに『喫茶去』と言われました。これはどういうわけですか」 すると趙州和尚はまたしても、 「喫茶去」 と答えたのでした。 禅の思想は極めて象徴的で、言句(文字や言葉)を 表面的に捉えると解釈を誤ります。 喫茶去というからお茶にとらわれてしまいますが、 趙州和尚は、ここへ初めて来たのか、 以前ここへ来たことがあるのかと、 未来でも過去でもない、 「いま、ここ」を問題にしているのです。 「いま、ここでお茶を召し上がれ」と。 お茶を飲むということは、日常のありふれた行為です。 しかしその日常の行為が、実は禅そのものなのです。 お茶を飲むことだけではありません。 ご飯を食べること、衣服を着ること、 そうした日常のすべてがそのまま禅なのです。 多忙な現代人は、食事もお茶も、 他のことをしながらいただいて 「ながら族」になりがちです。 しかし、何事も「ながら族」ではいけません。 お茶を飲む時はお茶を飲むことだけに徹する。 ご飯を食べる時も、衣服を着る時も、 ただそのこと一つに徹してすることによって、 人生の受け止め方も違ってくる。 喫茶去とは、そのことを説いているのです。 自分は回り道をしているとか、 自分の本当の仕事は別にあるとか、 何事も一時の腰掛けのつもりで手を抜いてやっていると、 必ず悔いが残ります。 しかし、どんな仕事であれ、 その時に全力を尽くしてやったことは、 後で必ずプラスになって返ってくるものです。 全力を尽くして取り組んでいる限り人生に無駄はない。 これは、私の長い人生から得た持論です。 事件は会議室で起きてるんじゃない!現場で起きてるんだ!!踊る大捜査線で、織田裕二さんが演じる、青島俊作が言った言葉を覚えている方も多 当時は、あまりピンときませんでしたが、最近になって、実に深い言葉だと思ってい 僕は、問題は現場で起こって、その解決策も現場にある、と考えています。 つまり、現場主義、が一番強いと感じるのです。 国会で、政治家の先生方が議論する姿は、それはそれでいいけれども、現場の声をも 僕も、大学で医学的内容の講義をしていますが、机上の空論になってはいけないと考 医師の少ない地域が抱える問題点は、よく理解しているつもりですし、解決のヒント 他業種のかた、現場で頑張っていらっしゃる方も、皆さん同じ気持ちですよね? |