セッコの恐怖

「フィガロの結婚」の、何にそんなに緊張して、何がそんなに恐怖だったのか。

とても大きな要因の一つは、何と言ってもレチタティーヴォ・セッコだった気がします。モーツァルトの時代のオペラは音楽と台詞がはっきり分かれていて、その台詞にあたる部分ですね。

「レチタティーヴォ」は「叙唱」と訳されますが、音程の決まった台詞、という感じでしょうか。レチタティーヴォには「セッコ」と「アッコンパニャート」の二種類があって、その違いはオーケストラの伴奏があるかないかです。

「アッコンパニャート」は「伴奏付き」の意味で、文字通りオーケストラの伴奏がつくので、指揮者が棒を振ります。そういう意味では「レチタティーヴォ・セッコ」と比べるとより「歌」に近い台詞です。

一方「セッコ」は「乾いた、ドライな」という意味で、チェンバロなどの鍵盤楽器と通奏低音(今回はチェロ1台)のみで伴奏します。

レチタティーヴォ・セッコの部分ではオーケストラが鳴らないので、指揮者もお休み(中にはご自分でチェンバロを演奏なさるマエストロもいらっしゃいますが)です。

チェンバロや通奏低音は歌手の台詞まわしに合わせて合いの手のように和音を弾いてくれるので、我々歌手が自分達の間合いで、会話を繰り広げていくわけですね。

19世紀に入ってオペラは「音楽を止めない」方向に進化していくので、レチタティーヴォ・セッコは消滅してゆきます。だからこの、台詞の言い方や間の取り方などを自由に工夫でき、稽古すればするほど面白くなる「レチタティーヴォ・セッコ」は古典オペラの醍醐味でもあります。

しかし。本番が近づくにつれ、気付いてしまったんですよね。誰かが台詞を忘れたら、たちまちドラマに空白が生まれるのだということに。

オーケストラが鳴り続けるオペラなら、誰かが台詞を落としても音楽は止まらないので、良くも悪くもドラマは流れます。でもオーケストラが止んでしまうレチタティーヴォ・セッコだと…!

実際に稽古場でも事故は頻発しました。シーン、と数秒の間があって「…誰?私!?」とか、相手役の顔を見つめて「…何だっけ?」とかいうようなことが。

こればかりは、どれだけ稽古しても恐怖を拭うことができませんでした。たとえ完全に覚えても、人間、突然ポカッと出てこなくなることって、ありますよね。

私たちがいつも、どれほど音楽に助けられ、音楽に甘えているかということを痛感しました。本番では、お客様に気付かれるほどの大事故はありませんでした(よね?)が、最後の最後まで恐怖はつきまといました。

常にこのプレッシャーと戦っているお芝居の役者さんに、一度教えを乞うてみたいものです。